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60’S、フェンス越しのアメリカと呼ばれた街<横浜・本牧>
本牧の丘に広がる"ベースキャンプ"、ベトナム帰休兵が踊り狂うクラブ"本牧ゴールデンカップ"、"米兵たちに群がるオンナたち"、そして"ドラッグ"...
初めて映画で明かされる知られざる<本牧の伝説>と不良達の素顔。
奇跡的に発見された<本牧ゴールデンカップ>店内の記録写真やカップスの演奏シーンなどの幻の映像数々。
ザ・ゴールデン・カップスをリスペクトするミュージシャンとヨコハマの不良達の生々しい証言で綴る史上空前のインタビュー叙事詩!
日本のロック史の扉を開いた先駆者達の壮大なクロニクル!


デイヴ平尾/リードボーカル

在籍期間:('66〜'72)
ザ・ゴールデン・カップスのリーダー。横浜の外国船専門のクリーニング店『シップス・ランドリー』の息子で九人兄弟の八番目に生まれる。ビートルズが来日してから間もない66年7月3日から約4ケ月程アメリカ放浪の旅に出かけ、本場のR&Bを体験。帰国後、カップスの前身である平尾時宗とグループ・アンド・アイを結成。以後、バンドのリーダーとして、個性が強いメンバーをまとめ続けた。66年の結成から72年の解散まで在籍した唯一のメンバーである。

エディ藩/リードギター

在籍期間:('66〜'72)
父親は中国広東省生まれの料理人で横浜中華街のレストラン『鴻昌』を経営。母親は神戸の在日華僑の家に生まれた。エディは彼の洗礼名「エドワード」から取られている。66年の夏頃、本場のR&Bを見聞するためにアメリカ放浪旅行に出たエディは、ゼムやヤードバーズなどのステージを見ながら旅を続けるなかサンフランシスコで偶然にもデイヴと出会う。これがきっかけとなり帰国後、デイヴから新グループ結成の為メンバー要請され、66年12月に平尾時宗とグループ・アンド・アイを結成。69年4月に一時的に脱退するが70年1月に復帰し以後、解散までリードギターをつとめた。

ルイズルイス加部/ベース&リードギター

在籍期間:('66〜'69)
父親はフランス系米国人で、母は日本人。中学2年の時にギターを始め、当時アメリカン・スクールの生徒でギタリストだったケネス伊東にギターを教わっていた。高校在学中に、同じ高校だったマモル・マヌーの誘いを受け平尾時宗とグループ・アンド・アイにベーシストとして参加する。“リード・ベース”と評された驚異的な早弾きベース・プレイで同時代のミュージシャンたちの度肝を抜き、その長身でスリムなルックスは、多くの女性ファンを魅了した。69年4月にエディ藩が脱退後は、リードギターとして活躍したが69年末に脱退した。

マモル・マヌー/ドラムス

在籍期間:('66〜'69)
叔母がハワイ出身の米軍人と結婚していた関係で、子供の頃から米軍キャンプに出入りしていた。やがてバンドのヴォーカリストとして幾つかのバンドを渡りながら活動を始める。デイヴ平尾が率いるアマチュアバンドに参加した事から、平尾時宗とグループ・アンド・アイにドラマー兼ヴォーカルとして参加。カップスの出世作となった3rdシングル「長い髪の少女」で、その伸びのあるヴォーカルと甘いルックスで一躍人気者となり、女性カップス・ファンの急増に大きく貢献。代表的GSアイドルのひとりとして脚光を浴びた。ドラマーとしても高い評価を得ていたが、本人の意思でドラムを手放し69年末にカップスを脱退する。

ミッキー吉野/キーボード

在籍期間:('68〜'71)
4才からクラシック・ピアノを習い始める。地元のセミプロ・バンドに誘われ、ナイト・クラブやダンス・パーティーで演奏活動を始め、同時期にアメリカン・スクールのバンドとして米軍キャンプの仕事も始める。68年7月、ケネス伊東がビザの問題で帰国する事になり、代役としてエディ藩から誘いがありカップスに加入。シングル「愛する君に」と2ndアルバムのレコーディングが初仕事となった。若干16歳ながら、その卓越したテクニックと音楽的素養は各方面から注目された。ケネス伊東が再来日した後は、ともに活動を行っている。70年12月、カップスを脱退し音楽修行の為にバークレー音楽大学へ旅立ち、帰国後にゴダイゴを結成する。

ケネス伊東/ギター&ベース

在籍期間:('66〜'70)
11才の時、米国軍人だった父の赴任に伴い来日。66年12月に平尾時宗とグループ・アンド・アイのメンバーとなり、初期カップスの音楽的要素に大きく貢献した。68年にビザの関係で一時ハワイに戻るためカップスを脱退するが、同年10月に復帰。帰国後はレコード・ジャケット等に姿を現さず、影でカップスの音楽面を支えていった。69年4月にエディ藩と共に脱退し、エディ藩グループを結成するが、翌年初頭には再びカップスに復帰する。その年の秋に兵役のため突然グループを脱退(メンバーは知らされていなかった)、物資輸送船の船員として約二年ばかり洋上生活を送った。日本に帰国後再びビザ問題が発生し、就労ビザを習得すべく奔走するが叶わず無念の思いで日本を離れハワイに永住し、97年に51歳の若さで他界した。

林 恵文/ベース

在籍期間:('69)
関東一円の米軍キャンプや横浜のクラブハウスで演奏活動を始める。ミッキー吉野とバンドを組んでいたが、68年にミッキーがゴールデン・カップス加入のため脱退。69年にルイズルイス加部からの誘いで、林もゴールデン・カップスに加入することになった。盟友ルイズルイス加部との息の合ったプレイを聴かせていたが、あまりの忙しさに面白味を見出せずプロの世界に馴染むことが出来なかった。69年末には、加部と共にカップスを脱退。林は学業に復帰、音楽活動から離れていった。

アイ高野/ドラムス

在籍期間:('70〜'72)
中学生のころから横浜の音楽シーンに惹かれて、15歳の時に、横浜の有名クラブ『レッド・シューズ』のハウス・バンドでドラムを叩く。アイ高野16歳の時に結成したザ・カーナビーツは、67年6月「好きさ好きさ好きさ」でレコード・デビュー。曲のブレイク部分でアイ高野のドラム・スティックを突き出す決めポーズが話題となり、一躍人気グループとして脚光を浴びた。69年秋にカーナビーツ解散後、エディ藩と出会いエディ藩グループに加入するが、同年末には解散となり、翌70年1月、エディ、ケネスと共にゴールデン・カップスに参加する。カップスには72年1月の解散まで在籍。

柳ジョージ/ベース

在籍期間:('70〜'72)
高校に通う頃には独学でギターをマスターし、アマチュア・バンドを結成、ギターとヴォーカルを担当した。68年、パワーハウスを結成し本牧を拠点に活動し、カップスの兄弟バンドとうたわれた。ニューロック勢の代表格として、ロック・フェスティバル等で活躍したパワー・ハウスだったが、70年3月に解散。同年9月に柳はケネス伊東の後任としてカップスに加入する。最後の沖縄火事でメンバーの中で唯一自分の楽器を確保して逃げたというエピソードはメンバーの間で語り草になっている。72年のカップス解散までベースをつとめた。

ジョン山崎/キーボード

在籍期間:('71〜'72)
4歳の頃からピアノを始め、アマチュア・バンドで演奏するようになる。70年に、ゴールデン・カップスを脱退したルイズルイス加部と林恵文が結成したルームにキーボード担当で参加。71年7月には、友人ミッキー吉野の後任としてゴールデン・カップスに参加し、72年1月の解散まで在籍した。
上西 四郎
CHIBO
● カップスを生んだ『本牧ゴールデンカップ』のマスター、元々京都で洋服屋を営んでいたが詐欺に遭い、紆余曲折を経て横浜に流れ着き1964年に店をオープンする。専属バンドのオーディションで、デイヴ平尾の声にほれ込み即採用を決定した。2004年12月『本牧ゴールデンカップ』は記念すべきオープン40周年を迎える。 ● カップスと共に横浜を代表するブルース・バンド、元パワーハウスのリードボーカル。アマチュア時代は、ルイズルイス加部やマモル・マヌーらと共にバンドを組んで活動した時期もあった。横浜・本牧にこだわりを持ち、現在も地元を中心にライウ゛活動を行なう。今なお、強烈な個性とカリスマ性でファンを魅了する本牧のリーダー的存在。
サリー
ハミ
●本牧周辺のクラブを中心に仲間と楽しく騒いでいた。カップスメンバーとも旧知の仲である。当時、横浜では最も短い股下数センチのミニスカートを履いて颯爽と街中を歩き、その姿は若者達の憧れの的だった。 ● サリーの姉。自宅が衣服を扱う店でもあり、週末のダンスパーティーには自分でダンスパーティー用の服を縫っていた。常に洗練されたものを追及し、当時はまだ人数の少なかったファッションモデルをやっていた。
渡辺 エリ子
ロメロ
● カップスメンバーであるケネス伊東の元夫人。当時、中華街にあった喫茶店『夜来香』の娘で、ケネス伊東とはよく基地へ海外のレコードを買いに出かけたりしていたという。ケネス伊東のビザ問題(当時は現在みたいに就労ビザを取得する事が難しく、観光ビザしか持たないケネス伊東は3ヶ月おきに日本を離れていた)が解決しなかった為、共に日本を離れハワイに渡った。 ● 本牧のボス的存在、兄のシーザーと共に兄弟で本牧を仕切っていた。とにかくケンカが強く暴れん坊で人々から恐れられ、『本牧ゴールデンカップ』でも何度かケンカ騒ぎを起こしたらしい。兵隊同士の揉め事も仕切るほどだった。現在はハワイに在住し、経営者として生活を送っている。
北野 武
スティーヴ・フォックス
● 学生の頃に横浜に憧れ、羽田で荷役のバイトをしていた頃に本牧に足を運んだ。当時の記憶では、雰囲気の恐さに店に入る事ができなかったらしい。 ● 本牧の基地内にあるアメリカン・スクールで学生時代を過ごし、その頃のカップスのライヴには殆ど足を運んだ。ゴダイゴ時代を共に過ごしたミッキー吉野とは、この頃から既に交流がありカップスメンバーの様子を聞くことができたという。
小金丸 峰夫
井上 堯之
●ケンカ、女、車に情熱を燃やした本牧ナポレオン党のリーダー。当時、横浜の若者達を巻き込みながらカーレースやダンスパーティーを主催し注目を浴びた。やがてその熱はマスコミを巻き込み、TVや雑誌で取り上げられた彼らの活動が、本牧の名を世に知らしめる結果となった。 ● アマチュア時代のカップスの評判を聞きザ・スパイダースのメンバーを引き連れて『本牧ゴールデンカップ』に行った事がある。カップスを日本で初めての洋楽バンドと評し、直接スカウトに動いたが残念ながら話は流れた。
ジュンコ
クン坊
● 当時を知る横浜出身の女性。親友のサリーと共に、横浜中で遊んでいた。踊りのセンスが抜群で、横浜のダンスパーティーでは常に注目を浴びた。 ● サリーの夫。本牧ナポレオン党のメンバーで小金丸峰夫と共に横浜の夜を席巻した。特に車が好きで、仲間と当時は珍しかった外車や特注仕上げの車で朝日奈峠の〔狭い道を競い走る〕カーレースに興じた。無茶な運転をして事故も堪えなかったという。
滝沢 征男
内田 裕也
●カップスのプロデューサー兼マネージャーを担当。アマチュア時代のカップスの評判を聞きつけ横浜まで足を運ぶ。元東京ビートルズの一員でミュージシャンであった滝沢氏であったが、カップスの音楽的レベルの高さにひたすら驚嘆し即スカウトに乗り出した。他社との激しい争奪戦が繰り広げられたが、度重なる交渉を経てカップ
スの獲得に成功する。
● 当時は兄貴分としてカップスを見守り、カップスの音楽的センスを誰よりも高く評価した。メンバーの中では特にデイヴ平尾と飲むことが多く、弟の様に可愛がっていた。フラワーズ、フラワートラヴェリンバンドを率いていた時期にカップスと共にニューロック時代を牽引し、日比谷野音などでステージを共にしている。
中村 裕介
鈴木ヒロミツ
● 地元・横浜のギタリスト。当時はカップスの演奏していたR&Bをコピーしたりして影響を受けていた。エディ藩との共演が多い。 ●GSの中でもモップスはカップスと並んで男性ファンが多く、カバーする洋楽曲も似通っていたため、カップスと競って最新レコードのお気に入りをコピーしていた。70年代に入りニューロック時代が到来するとモップスの人気は最高潮に達し、日比谷野音を熱狂の渦に巻き込んでいった。
鳴瀬 喜博
矢野 顕子
● ベーシスト。当時は学生で、TV番組ヤング720に出演しているカップス、特にルイズルイス加部のベースに衝撃を受ける。友人を引き連れて本牧を覗きにやってくるが、あまりの恐ろしい雰囲気にどこの店に入る事も無く帰ったという。 ● シンガーソングライター&ピアニスト。青森で過ごしていた小学生の頃、カップスの持つ不良っぽさと音楽センスに魅了され、単身上京しジャズ喫茶で演奏を見る程のファンだった。周りの女の子がアイドル系のGSに走る中、ただ一人カップスの追っかけをやっていた。
忌野 清志郎
横山 剣
● カップスを日本一好きなバンドと評し、自らのコンサートでもカップスのオリジナル曲を歌うほどである。RCサクセション時代にジャズ喫茶でカップスと対バンを張った事があったが、恐れ多くて喋ることも出来なかったという。たまたま廊下ですれ違い様に声を掛けてもらった事が、最高の思い出との事。 ● クレイジーケンバンドのボーカリスト。横浜生まれの横浜育ちで、カップスやパワーハウスに多大な影響を受けた。本牧のガソリンスタンドでバイトしながら、CHIBOの店でバンド練習などしていた。ロンドンのクラブでカップスの「銀色のグラス」がかかって、ロンドンの若者達がその曲に乗って踊るのを見た時の衝撃が今でも忘れられないとの事。横浜・本牧の音楽を強力にリスペクトしている。
樋口 晶之
CHAR
● 元ブルース・クリエイションのドラマー。名古屋でカップスを見てミュージシャンになる事を決意する。カップス解散後、京都で活動する為に編成されたデイヴ平尾、ルイズルイス加部、柳ジョージを中心としたバンドのドラマーとして共に演奏を行った時期がある。 ● 小学生の頃、好きだったカップスのステージを観るために、豊島園などの遊園地で行われたカップス公演に足を運んだ。当時は小学生の為に親の同伴が必要だったジャズ喫茶やクラブには入れず悔しい思いをしたという。ヤバイ先輩達と評したカップスメンバーからはチャー坊と可愛がられた。後にルイズルイス加部とジョニールイス&チャー(後にピンク・クラウドに改名)を結成。
土屋 昌巳
河内 修
● カップスのローディー(バンドのボーヤ)になりたくて、16歳の時に静岡の実家を飛び出す。後楽園遊園地で公演していたカップスの楽屋に行き直談判をするが、デイヴ平尾に罵倒され門前払いになるところをルイズルイス加部に拾われスタッフの仲間入りを果たした。約2ヶ月、カップスのボーヤとして働いていたが家から出ていた捜索願いが事務所に届き、強制解雇となり静岡に戻った。後にプロデビューし一風堂を結成しギタリストとして活躍。 ● カップスのボーヤ(バンドボーイ)を担当。何においてもカップスがNO.1を信じて疑わず、他のGSの車を見つけると必ず追い抜いて会場へ向う程に競争心が強かった。しかし、どんなに頑張って組み上げたステージでもメンバーが揃わない事が頻繁にあったので寂しい思いも多かったという。後に、<パワーハウス>のボーヤでも活躍した。
原 一郎
樋口 紀男
● カップスのマネージャーを担当。常に現場サイドでカップスと接していた為にメンバーへの思い入れも深い。デイヴ平尾の家に泊まり込み、毎朝メンバー一人一人をピックアップして現場に向かっていたが、家につき仕事に行くよう説得するのが大変だったという。ステージに穴を空けるメンバーの為に指を詰められそうになるなど、心労が絶えなかったがカップスを解散まで支え続けた。 ●メジャーデビューしたカップスが所属した芸能プロダクションの副社長。勝手気ままな行動を取るメンバーに手を焼きつつも、競争率の激しいGS界の中でカップスの名を全国に広め、実力派グループとして売出す事に成功する。
ゲーリー渡辺
李 世福
● ケネス伊東の義弟。ケネス伊東の影響を多分に受け、R&Bについて数多くの事を教わりカップスの練習の殆どを間近で見ていた。11歳にしてドラマーとして活躍し、エディ藩とオリエント・エクスプレスのメンバーでもあった。 ● ギタリスト。横浜を代表するギタリストの一人。エディ藩の中華学校の後輩にあたる。カップスメンバーとは旧知の仲でステージを共にする事も多い。
萩原 健一
ジョー山中
● 制約や決まり事が多かったGS界の中で、1、2を争う人気グループだったザ・テンプターズで活躍しながらも、自由奔放に活動しているカップスをうらやましく思っていた。 ●同じ横浜出身でメジャーデビュー前のカップスを見て衝撃を受ける。内田裕也と共に結成したフラワートラヴェリンバンドで日本初の海外デビューを果たした。帰国後は日比谷野音などでカップスと共に、ニューロックに沸きあがる若者たちを沸かせた。
井上 達彦
水上 はるこ
● ジャズ喫茶『新宿ACB』(ACBはアシベと読む)の元支配人。ほぼ全てのGSを相手に営業をしていた。ずば抜けた音楽センスを持つメンバーを高く評価する一方で、カップスほど危険を感じたグループは無かったという。 ● 音楽雑誌ミュージックライフの元編集長。洋楽専門誌にも関わらずカップス取材に力を入れる。カップスの初期に行われた『新宿ACB』のステージは全て足を運んだ。
ムッシュかまやつ
陳 信輝
● ザ・スパイダース全員で『本牧ゴールデンカップ』に向かい、初めてカップスの演奏を聴いたとき俺達の時代は終わったと呟いたという。横浜の氷川丸でスパイダースが演奏していたときにステージが目茶苦茶に壊されたことがあり、後で調べるとデイヴ平尾の友達連中だったらしい事が判明した(デイヴ平尾は関与せず)。1995年に再結成されたウォッカ・コリンズでルイズルイス加部と共に活動した。 ● 元パワーハウス。ルイズルイス加部とフード・ブレインやスピード・グルー&シンキなどで共演し、70年代のロックシーンの旗手として脚光を浴びた。横浜を代表するギタリストだが、残念ながら現在は音楽シーンから身を引いている。
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